伊藤詩織さん性暴力事件、「やめて」と言わなかった理由
先日、伊藤詩織さんの勝訴が各メディアで大きく報じられました。
恥ずかしながら僕はこの事件を全く知らなかったのですが、どうやら2015年に起きた性暴力事件に4年の歳月を経てようやく一つのピリオドが打たれたようです。
各所で報じられている通り、ホテルの防犯カメラ映像にも、酩酊状態の詩織さんを半強制的に部屋へと連れ込む山口氏が映っていて、性行為の同意がなかったのは確かなようです。
睡眠剤(デートレイプドラッグ)の有無や同意の形成について様々な議論が行き交っていますが、中国のSNSでは「日本語と英語の違い」について意見している人が多数いました。
そこで今回は事件の有罪無罪ではなく、日本語の「やめて」「いや」という表現の受け取り方の男女差、言語が及ぼす性格・顔つきへの影響について考えてみました。以下はWeiboから引用した文章と翻訳です。
语言真的很有趣。
我不止一次看到了伊藤诗织这件事跟语言的关系了。首先,有人说她正是因为英语流利才能讲出自己的故事。其次,很多人说伊藤诗织讲日语和英语时候是完全两个人。因为英语有很多愤怒而轻松的表达,用日语好像就很困难。
还有东亚三国的脸型问题,日本人讲话都很少张大嘴,嘴部动作很小的,所以日本人和中国人其实并不难分清楚。还有美国华裔,除了身材体型不同外,长期讲英语也使他们有别于国人的脸型和神情,非常容易辨认的。
对不起我不是要讲社会问题。我想说的是:你的语言也塑造你的脸型……所以可能多用书面语言,少八卦真的对脸型有益。
Yǔyán zhēn de hěn yǒuqù.
Wǒ bùzhǐ yīcì kàn dàole yīténg shī zhī zhè jiàn shì gēn yǔyán de guānxìle. Shǒuxiān, yǒurén shuō tā zhèng shì yīnwèi yīngyǔ liúlì cáinéng jiǎng chū zìjǐ de gùshì. Qícì, hěnduō rén shuō yīténg shī zhī jiǎng rìyǔ hé yīngyǔ shíhòu shì wánquán liǎng gèrén. Yīnwèi yīngyǔ yǒu hěnduō fènnù ér qīngsōng de biǎodá, yòng rìyǔ hǎoxiàng jiù hěn kùnnán.
Hái yǒu dōngyà sānguó de liǎnxíng wèntí, rìběn rén jiǎnghuà dōu hěn shǎo zhāngdà zuǐ, zuǐ bù dòngzuò hěn xiǎo de, suǒyǐ rìběn rén hé zhōngguórén qíshí bìng bù nán fēn qīngchǔ. Hái yǒu měiguó huáyì, chúle shēncái tǐxíng bùtóng wài, chángqí jiǎng yīngyǔ yě shǐ tāmen yǒu bié yú guó rén de liǎnxíng hé shénqíng, fēicháng róngyì biànrèn de.
Duìbùqǐ wǒ bùshì yào jiǎng shèhuì wèntí. Wǒ xiǎng shuō de shì: Nǐ de yǔyán yě sùzào nǐ de liǎnxíng……suǒyǐ kěnéng duōyòng shūmiàn yǔyán, shǎo bāguà zhēn de duì liǎnxíng yǒuyì.
(訳)言語って本当に興味深い。
私は伊藤詩織さんの事件と言語の関係を何度も気づきました。まず、彼女は英語が流暢なおかげで自分の体験や意見を主張することができる、ということ。次に多くの人がいうのは、伊藤詩織さんは「日本語を話している時」と「英語を話しているとき」ではまるで別人であること。英語ではたくさんの怒りとともに緩む瞬間もあり、話全体に緩急のある表現が感じられるが日本語ではそういった表現が難しいように思える。
また中国・韓国・日本の顔の特徴の問題で、日本人はしゃべる時に口を大きく開くことが少ないため口元の動きが小さく、日本人と中国人を見分けるのは実は難しくない。それにアメリカの華僑は体格が異なるのもさることながら、長期的に英語を話すことで本国人とは顔と表情が違ってくるため非常に見分けやすい。
社会問題について話すつもりはなかったのですがすみません。私が言いたいのは「あなたが話す言葉があなたの顔を造る」ということ......ですのでなるべく活字で書かれるような言葉を使い、ゴシップで盛り上がるのはほどほどにするのが「顔つき」のためにも良いでしょう。
幸亏伊藤诗织英语好,否则在日本根本不会有人知道她的故事。还有另外一个微妙的细节:你不觉得说日语的伊藤诗织和说英语的伊藤诗织完全是两个人吗?日本社会不欢迎雄辩的人,女性用语里没有那样愤怒的表达语气。
Xìngkuī yīténg shī zhī yīngyǔ hǎo, fǒuzé zài rìběn gēnběn bù huì yǒurén zhīdào tā de gùshì. Hái yǒu lìngwài yīgè wéimiào de xìjié: Nǐ bù juédé shuō rìyǔ de yīténg shī zhī hé shuō yīngyǔ de yīténg shī zhī wánquán shì liǎng gèrén ma? Rìběn shèhuì bù huānyíng xióngbiàn de rén, nǚxìng yòngyǔ lǐ méiyǒu nàyàng fènnù de biǎodá yǔqì.
(訳)伊藤詩織さんは英語が上手くてよかった、でなければ日本では彼女のことを知る人は全くいなかったでしょう。もう一つ重要だと思うのは、日本語を話す彼女と英語を話す彼女では全くの別人だと思いませんか?日本社会では雄弁な人は歓迎されず、女性が使う言葉にはあのような怒りの表現や声のトーンがありません。
有许多听众都留意到,说英语的伊藤诗织和说日语的伊藤诗织相当不同。她在用英文讲述时,显得更加自信有力,而用日语讲述时,则展现出一种柔弱和顺从的气质。在《黑箱:日本之耻》一书中,伊藤诗织也提到:在拒绝对方的那个瞬间,她无法用日语说出那一句“不要”。因为在日本的文化语境下,“不要”听上去也是在取悦对方,所以她最后那个时候说的一句话是“what the fuck are you doing”。
Yǒu xǔduō tīngzhòng dōu liúyì dào, shuō yīngyǔ de yīténg shī zhī hé shuō rìyǔ de yīténg shī zhī xiāngdāng bùtóng. Tā zài yòng yīngwén jiǎngshù shí, xiǎndé gèngjiā zìxìn yǒulì, ér yòng rìyǔ jiǎngshù shí, zé zhǎnxiàn chū yī zhǒng róuruò hé shùncóng de qìzhí. Zài “hēixiāng: Rìběn zhī chǐ” yī shū zhōng, yīténg shī zhī yě tí dào: Zài jùjué duìfāng dì nàgè shùnjiān, tā wúfǎ yòng rìyǔ shuō chū nà yījù “bùyào”. Yīnwèi zài rìběn de wénhuà yǔ jìng xià,“bùyào” tīng shàngqù yěshì zài qǔyuè duìfāng, suǒyǐ tā zuìhòu nàgè shíhòu shuō de yījù huà shì “what the fuck are you doing”.
(訳)スピーチを聞いた人が気を留めたのが、英語を話す彼女と日本語を話す彼女がかなり違うということ。英語で意見を述べている時はより自信と力に満ちているが、日本語で意見を述べている時は弱腰で従順な気質が露呈している。著書「ブラック・ボックス」で伊藤詩織さんも言及しているように、相手を拒絶する瞬間、日本語で“やめて”と言えなかった。なぜなら日本の文化的言語背景では、“やめて”と言う言葉も相手を喜ばせるものであるため、彼女は最終的に“what the fuck are you doing”という一言を放った。
伊藤诗织也说过日语里没有那种坚决表示拒绝的词。
很奇怪不是吗,有迎合却没有拒绝,像一条不能回头的路。
Yīténg shī zhī yě shuōguò rìyǔ lǐ méiyǒu nà zhǒng jiānjué biǎoshì jùjué de cí.
Hěn qíguài bùshì ma, yǒu yínghé què méiyǒu jùjué, xiàng yītiáo bùnéng huítóu de lù.
(訳)伊藤詩織さんも言っていた。日本語にはきっぱりと拒絶を示すような言葉がないと。
奇妙ではないですか?受け入れるのみで拒絶がない。まるで戻ることのできない一本の道のようだ。
早上看新闻时看到伊藤诗织在杭州的沙龙,南方周末记者有一句对她的评价是“她在说日语和说英语的时候完全是两个人”。
这句话我记得很深,因为我自己也有这样的感受,且一直认为两种语言环境下我的思维是完全不同的。两种思维没有好坏之分,但说英语时我仿佛更敢于直接表达真实的观点,也更注重同亲密关系交往时的边界。
Zǎoshang kàn xīnwén shí kàn dào yīténg shī zhī zài hángzhōu de shālóng, nánfāng zhōumò jìzhě yǒu yījù duì tā de píngjià shì “tā zài shuō rìyǔ hé shuō yīngyǔ de shíhòu wánquán shì liǎng gèrén”.
Zhè jù huà wǒ jìdé hěn shēn, yīnwèi wǒ zìjǐ yěyǒu zhèyàng de gǎnshòu, qiě yīzhí rènwéi liǎng zhǒng yǔyán huánjìng xià wǒ de sīwéi shì wánquán bùtóng de. Liǎng zhǒng sīwéi méiyǒu hǎo huài zhī fēn, dàn shuō yīngyǔ shí wǒ fǎngfú gèng gǎnyú zhíjiē biǎodá zhēnshí de guāndiǎn, yě gèng zhùzhòng tóng qīnmì guānxì jiāowǎng shí de biānjiè.
(訳)朝新聞を見たら伊藤詩織さんが杭州のサロンに招かれていて、南方週末(southern weekly / 中国南方のメディア)の記者が“彼女は日本語を話している時と英語を話している時では完全に別人ですね”と詩織さんを評価していた。
この一言はよく覚えている。なぜなら私自身も同じように感じ、二つの言語環境の下では思考も完全に別であると常々思っているからだ。二つの思考に良いも悪いもないが、英語で話す時はより直接的でストレートな意見を伝えられる気がするし、心を許した人に接するときとそうでない人との境界を明確に分けてしまう。
この事件について国内外の記事を調べているとき、「いやよいやよも好きのうち」、という感覚が根深く日本人にあることを改めて感じました。だからこそ詩織さんは「やめて」と日本語で拒否することが相手を喜ばせてしまうと思い、だから英語で返した。上記のWeiboでの中国人の意見は鋭く、日本人の言語感覚をそのまま英語にトレースするのは難しく、まるで別人のようになってしまうのかな、と思いました。
恥ずかしながら僕はこの事件を全く知らなかったのですが、どうやら2015年に起きた性暴力事件に4年の歳月を経てようやく一つのピリオドが打たれたようです。
各所で報じられている通り、ホテルの防犯カメラ映像にも、酩酊状態の詩織さんを半強制的に部屋へと連れ込む山口氏が映っていて、性行為の同意がなかったのは確かなようです。
睡眠剤(デートレイプドラッグ)の有無や同意の形成について様々な議論が行き交っていますが、中国のSNSでは「日本語と英語の違い」について意見している人が多数いました。
そこで今回は事件の有罪無罪ではなく、日本語の「やめて」「いや」という表現の受け取り方の男女差、言語が及ぼす性格・顔つきへの影響について考えてみました。以下はWeiboから引用した文章と翻訳です。
语言真的很有趣。
我不止一次看到了伊藤诗织这件事跟语言的关系了。首先,有人说她正是因为英语流利才能讲出自己的故事。其次,很多人说伊藤诗织讲日语和英语时候是完全两个人。因为英语有很多愤怒而轻松的表达,用日语好像就很困难。
还有东亚三国的脸型问题,日本人讲话都很少张大嘴,嘴部动作很小的,所以日本人和中国人其实并不难分清楚。还有美国华裔,除了身材体型不同外,长期讲英语也使他们有别于国人的脸型和神情,非常容易辨认的。
对不起我不是要讲社会问题。我想说的是:你的语言也塑造你的脸型……所以可能多用书面语言,少八卦真的对脸型有益。
Yǔyán zhēn de hěn yǒuqù.
Wǒ bùzhǐ yīcì kàn dàole yīténg shī zhī zhè jiàn shì gēn yǔyán de guānxìle. Shǒuxiān, yǒurén shuō tā zhèng shì yīnwèi yīngyǔ liúlì cáinéng jiǎng chū zìjǐ de gùshì. Qícì, hěnduō rén shuō yīténg shī zhī jiǎng rìyǔ hé yīngyǔ shíhòu shì wánquán liǎng gèrén. Yīnwèi yīngyǔ yǒu hěnduō fènnù ér qīngsōng de biǎodá, yòng rìyǔ hǎoxiàng jiù hěn kùnnán.
Hái yǒu dōngyà sānguó de liǎnxíng wèntí, rìběn rén jiǎnghuà dōu hěn shǎo zhāngdà zuǐ, zuǐ bù dòngzuò hěn xiǎo de, suǒyǐ rìběn rén hé zhōngguórén qíshí bìng bù nán fēn qīngchǔ. Hái yǒu měiguó huáyì, chúle shēncái tǐxíng bùtóng wài, chángqí jiǎng yīngyǔ yě shǐ tāmen yǒu bié yú guó rén de liǎnxíng hé shénqíng, fēicháng róngyì biànrèn de.
Duìbùqǐ wǒ bùshì yào jiǎng shèhuì wèntí. Wǒ xiǎng shuō de shì: Nǐ de yǔyán yě sùzào nǐ de liǎnxíng……suǒyǐ kěnéng duōyòng shūmiàn yǔyán, shǎo bāguà zhēn de duì liǎnxíng yǒuyì.
(訳)言語って本当に興味深い。
私は伊藤詩織さんの事件と言語の関係を何度も気づきました。まず、彼女は英語が流暢なおかげで自分の体験や意見を主張することができる、ということ。次に多くの人がいうのは、伊藤詩織さんは「日本語を話している時」と「英語を話しているとき」ではまるで別人であること。英語ではたくさんの怒りとともに緩む瞬間もあり、話全体に緩急のある表現が感じられるが日本語ではそういった表現が難しいように思える。
また中国・韓国・日本の顔の特徴の問題で、日本人はしゃべる時に口を大きく開くことが少ないため口元の動きが小さく、日本人と中国人を見分けるのは実は難しくない。それにアメリカの華僑は体格が異なるのもさることながら、長期的に英語を話すことで本国人とは顔と表情が違ってくるため非常に見分けやすい。
社会問題について話すつもりはなかったのですがすみません。私が言いたいのは「あなたが話す言葉があなたの顔を造る」ということ......ですのでなるべく活字で書かれるような言葉を使い、ゴシップで盛り上がるのはほどほどにするのが「顔つき」のためにも良いでしょう。
幸亏伊藤诗织英语好,否则在日本根本不会有人知道她的故事。还有另外一个微妙的细节:你不觉得说日语的伊藤诗织和说英语的伊藤诗织完全是两个人吗?日本社会不欢迎雄辩的人,女性用语里没有那样愤怒的表达语气。
Xìngkuī yīténg shī zhī yīngyǔ hǎo, fǒuzé zài rìběn gēnběn bù huì yǒurén zhīdào tā de gùshì. Hái yǒu lìngwài yīgè wéimiào de xìjié: Nǐ bù juédé shuō rìyǔ de yīténg shī zhī hé shuō yīngyǔ de yīténg shī zhī wánquán shì liǎng gèrén ma? Rìběn shèhuì bù huānyíng xióngbiàn de rén, nǚxìng yòngyǔ lǐ méiyǒu nàyàng fènnù de biǎodá yǔqì.
(訳)伊藤詩織さんは英語が上手くてよかった、でなければ日本では彼女のことを知る人は全くいなかったでしょう。もう一つ重要だと思うのは、日本語を話す彼女と英語を話す彼女では全くの別人だと思いませんか?日本社会では雄弁な人は歓迎されず、女性が使う言葉にはあのような怒りの表現や声のトーンがありません。
有许多听众都留意到,说英语的伊藤诗织和说日语的伊藤诗织相当不同。她在用英文讲述时,显得更加自信有力,而用日语讲述时,则展现出一种柔弱和顺从的气质。在《黑箱:日本之耻》一书中,伊藤诗织也提到:在拒绝对方的那个瞬间,她无法用日语说出那一句“不要”。因为在日本的文化语境下,“不要”听上去也是在取悦对方,所以她最后那个时候说的一句话是“what the fuck are you doing”。
Yǒu xǔduō tīngzhòng dōu liúyì dào, shuō yīngyǔ de yīténg shī zhī hé shuō rìyǔ de yīténg shī zhī xiāngdāng bùtóng. Tā zài yòng yīngwén jiǎngshù shí, xiǎndé gèngjiā zìxìn yǒulì, ér yòng rìyǔ jiǎngshù shí, zé zhǎnxiàn chū yī zhǒng róuruò hé shùncóng de qìzhí. Zài “hēixiāng: Rìběn zhī chǐ” yī shū zhōng, yīténg shī zhī yě tí dào: Zài jùjué duìfāng dì nàgè shùnjiān, tā wúfǎ yòng rìyǔ shuō chū nà yījù “bùyào”. Yīnwèi zài rìběn de wénhuà yǔ jìng xià,“bùyào” tīng shàngqù yěshì zài qǔyuè duìfāng, suǒyǐ tā zuìhòu nàgè shíhòu shuō de yījù huà shì “what the fuck are you doing”.
(訳)スピーチを聞いた人が気を留めたのが、英語を話す彼女と日本語を話す彼女がかなり違うということ。英語で意見を述べている時はより自信と力に満ちているが、日本語で意見を述べている時は弱腰で従順な気質が露呈している。著書「ブラック・ボックス」で伊藤詩織さんも言及しているように、相手を拒絶する瞬間、日本語で“やめて”と言えなかった。なぜなら日本の文化的言語背景では、“やめて”と言う言葉も相手を喜ばせるものであるため、彼女は最終的に“what the fuck are you doing”という一言を放った。
伊藤诗织也说过日语里没有那种坚决表示拒绝的词。
很奇怪不是吗,有迎合却没有拒绝,像一条不能回头的路。
Yīténg shī zhī yě shuōguò rìyǔ lǐ méiyǒu nà zhǒng jiānjué biǎoshì jùjué de cí.
Hěn qíguài bùshì ma, yǒu yínghé què méiyǒu jùjué, xiàng yītiáo bùnéng huítóu de lù.
(訳)伊藤詩織さんも言っていた。日本語にはきっぱりと拒絶を示すような言葉がないと。
奇妙ではないですか?受け入れるのみで拒絶がない。まるで戻ることのできない一本の道のようだ。
早上看新闻时看到伊藤诗织在杭州的沙龙,南方周末记者有一句对她的评价是“她在说日语和说英语的时候完全是两个人”。
这句话我记得很深,因为我自己也有这样的感受,且一直认为两种语言环境下我的思维是完全不同的。两种思维没有好坏之分,但说英语时我仿佛更敢于直接表达真实的观点,也更注重同亲密关系交往时的边界。
Zǎoshang kàn xīnwén shí kàn dào yīténg shī zhī zài hángzhōu de shālóng, nánfāng zhōumò jìzhě yǒu yījù duì tā de píngjià shì “tā zài shuō rìyǔ hé shuō yīngyǔ de shíhòu wánquán shì liǎng gèrén”.
Zhè jù huà wǒ jìdé hěn shēn, yīnwèi wǒ zìjǐ yěyǒu zhèyàng de gǎnshòu, qiě yīzhí rènwéi liǎng zhǒng yǔyán huánjìng xià wǒ de sīwéi shì wánquán bùtóng de. Liǎng zhǒng sīwéi méiyǒu hǎo huài zhī fēn, dàn shuō yīngyǔ shí wǒ fǎngfú gèng gǎnyú zhíjiē biǎodá zhēnshí de guāndiǎn, yě gèng zhùzhòng tóng qīnmì guānxì jiāowǎng shí de biānjiè.
(訳)朝新聞を見たら伊藤詩織さんが杭州のサロンに招かれていて、南方週末(southern weekly / 中国南方のメディア)の記者が“彼女は日本語を話している時と英語を話している時では完全に別人ですね”と詩織さんを評価していた。
この一言はよく覚えている。なぜなら私自身も同じように感じ、二つの言語環境の下では思考も完全に別であると常々思っているからだ。二つの思考に良いも悪いもないが、英語で話す時はより直接的でストレートな意見を伝えられる気がするし、心を許した人に接するときとそうでない人との境界を明確に分けてしまう。
この事件について国内外の記事を調べているとき、「いやよいやよも好きのうち」、という感覚が根深く日本人にあることを改めて感じました。だからこそ詩織さんは「やめて」と日本語で拒否することが相手を喜ばせてしまうと思い、だから英語で返した。上記のWeiboでの中国人の意見は鋭く、日本人の言語感覚をそのまま英語にトレースするのは難しく、まるで別人のようになってしまうのかな、と思いました。
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